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「夏と冬の奏鳴曲」レジュメ

99/7/24 文責 中根

1 序

 この「夏と冬の奏鳴曲」は、綾辻行人の「十角館の殺人」以降、続々と現れた、いわゆる「新本格」と呼ばれる作品群の中で、一際異彩を放っている作品である。
 作品の中に使われている材料は、まさに本格のコードそのものといったものばかりである。孤島、歪んだ館、雪の密室、首なし死体、さらに意外な犯人。しかし、この作品は決してこれだけの作品ではない。至る所にちりばめられた、物語 の中では解き明かされない謎が、この作品の一つの軸になっているのだ。麻耶雄嵩以外の誰もこの作品を書けなかっただろうし、また書かなかっただろう。あらゆる意味でこの本は、奇蹟の書と呼ぶのにふさわしい本である。
 なお、このレジュメの中の引用は特に断りがなければ「夏と冬の奏鳴曲」ノベルス版からのものである。さらに作品の性質上、この作品だけではなく、他の麻耶雄嵩作品、特に「翼ある闇」と「痾」の内容に触れることもある。

2 前奏 作者紹介

 麻耶雄嵩:1969年三重県生まれ。京都大学推理小説研究会出身者の中でもその作品は一際異彩を放つ作家。21歳の時、島田荘司の強い推薦を受け、「翼ある闇」でデビュー。その構成、トリックが当時非常に話題となった。デビュー二作目の本作も喧喧諤諤の議論を巻き起こした。最新作は「鴉」。

3 主人公 如月烏有と舞奈桐璃

 如月烏有はとにかく暗い。十一の時に背負った、前途有望な青年を死なせてしまったという負い目。その青年の代わりを務められないという自己嫌悪。そして桐璃が傷ついたあとはその後悔。それが如月烏有という人格を構成している。烏有とは、漢文で「いずくんぞあらんや」とよみ、何もないことを意味している。烏有“自身”は何もないのである。この名前は作中映画「春と秋の奏鳴曲」の主人公「ヌル」というのと一致する。(ヌルnullは無という意味)余談だが、「痾」の烏有が放火を繰り返すのは、烏有に帰す(焼失する)という言葉から来たものかもしれない。
 もう一人の主人公、舞奈桐璃は、はっきりとは書かれていないが、烏有が死なせてしまった青年の妹であることを思わせる記述が随所に見られる。「少女の瞳は黄色がかっていた。……それはどこかで見覚えがあったはずなのだが、思い出せなかった」(p.76)、「妹らしき七つくらいの少女の瞳……突き刺すような黄色い瞳」(p.163)、「妙案と云わんばかりに黄色がかった瞳をぱちくりと……」(p.373)。だが、桐璃自身がそれを知っているのかどうかという記述はない。ただ私はそうではないと思っている。(理由は5の所で)

4 展開 残された謎

 和音島で起こった三つの殺人事件と一つの傷害事件の犯人は作中できちんと記されていて、その動機方法全て明らかになっている。もちろん島を舞台とした大トリックについて賛否両論はあるだろう。しかし、このレジュメではそれ以外の謎について考察したい。

4−1 ふたりの桐璃

 作中で一番の謎はこれではないだろうか。作品の最後の部分で登場する、傷ついていない桐璃。この桐璃は作品の当初から実は登場している。もちろん烏有のことを「うゆーさん」と呼ぶか「うゆうさん」と呼ぶかの違いだ。しかし私はふたりの「桐璃」ではないと思っている。それは、「うゆう」桐璃が始めて登場するp.69からの類推である。ここで、「桐璃」は自分の名前を烏有に聞いている。このことにより、この「桐璃」は「舞奈桐璃」としてアイデンティファイされたのではないだろうか。そして二十年前、この島にやってきた五人も同じ女性を見たのではないだろうか。そして彼らは彼女を「和音」と呼んだのではないだろうか。すると桐璃と和音が似ている理由もうなづける。彼らはある意味で同じ人物を見ていたのだから。
 閉幕後、烏有は無傷なほうの桐璃を連れて日本本土に帰っている。しかもごく自然に。これは「和音」の「桐璃」としての展開を表してはいないだろうか。あたかもパピエ・コレという実物を絵の中に取り込むことにより、絶対的な存在として展開する技法のように、「和音」は逆に一部を損失した「桐璃」という存在の絶対的な核として展開されたのだろう。

4−2 映画と烏有の現実との一致

 むしろこちらのほうが不思議な謎である。この事実を偶然と見るか必然と見るかによって、この作品の評価はまったく異なるものになるだろう。一つのヒントとしては、映画「春と秋の奏鳴曲」の続編となるものが武藤の著した“黙示録”であるということがあげられるのではないか。
 さらに、この映画が「和音」の映画であるということも一つの謎である。作中で述べられているとおり、この映画の中に出演していたのは肖像画に描かれている「真宮和音」ではなく、武藤尚美であった。しかし小柳は和音の映画であると明言している(p.83)。「和音」が思想であり、「春と秋の奏鳴曲」が思想的な映画だとしたら、この説明はうなづけなくもない。しかし「春と秋の奏鳴曲」からはそういった感じは受けない。何を持って小柳は(あるいはあの映画を作った人達は)これを「和音」の映画としたのだろうか。

4−3 猫と鈴

 この作品の中で、「和音」をイメージさせるものとして鈴が使われている。しかし、島を訪れた人物は皆同じようにこの鈴を忌み、畏れている。しかも鈴は常に「死」のイメージの所に現れている。例えばp.107,227では和音と武藤の墓碑の前で、p.380では死んだ結城の手の中に握られている。この鈴はいったい何を意味しているのだろうか。
 もう一つ、作中で烏有も言っているように、最後のパートで登場する黒猫(実は(8月10日の0パートにも登場しているが)も、一つの大きなファクターには違いない。烏有の今を作り上げることになった黒猫と何か関係があるのだろうか。

4−4 メルカトル鮎の言葉

 本土に帰ってきた烏有の前に現れるのが、銘探偵メルカトル鮎である。彼は病床の烏有に一つの質問を投げかける。それに答えて愕然とする烏有。
 ここでの烏有の答えは、「和音」に他ならないだろう。問題はその編集長「和音」がp.399で武藤が出会ったという「和音」なのかどうかだ。年齢的にはそれほど おかしくはないように思える。さらに、p.44で水鏡(実は武藤)が編集長と面識があるといっている。このことも編集長=真宮和音という考えを後押ししているのではないか。ただ私の考えでは、この「和音」は和音島を訪れてはいないと思う。和音島にもちこまれた「和音」は烏有が言うように、純粋な理念として創造されたものだと思う。これは武藤が企図したことかもしれない。そこで彼らはもう一人の「和音」に出会ったのではないだろうか。

4−5 0パートの視点

 この作品ではほぼ一貫して、烏有を中心とした一人称的三人称の視点が使われている。しかし、私には二つの0パートの視点がひどくあいまいにかかれているような気がする。それは8月5日と8月9日、8月10日の三つのパートである。
 特にあとの二つのパートはその構成自体が奇妙で、何か重要なことがかかれているのではないかという考えを抱かせる。

4−6 さらにいくつかの謎

 謎といっていいのか分からないが、私が奇妙に思ったことを列挙する。
・ 桐璃があの服を始めに着た時(p.77)、いったい何があったのか。
・ 桐璃のあの服はどこから来たのか。(p.55でお母さんの遺品と言っているが、p.270で烏有は村沢の質問に、両親とも健在だと答えている。どういうことだろうか?)
・ 四階の窓から覗いていた黒い服の女性(?)は誰か。(もう一人の桐璃ならば、服は白いワンピースのはず)
・ 真鍋夫妻は本当に幼児売買をしていたのか。
・ 春と秋の奏鳴曲で、ヌルを演じているのは誰だろうか。

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