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「夏と冬の奏鳴曲」レジュメ

99/7/24 文責 中根

5 私見 私の解釈

 この作品の謎については、解釈すべきではないのかもしれない。しかしあえて私はそれをやってみる。この解釈はまったくの私見であり、これが唯一のものであるということはない。
 映画に描かれている「ヌル」青年は、最初の交通事故を除けば、後の事象はそれほど奇妙なことではないことに気がつく。事象だけをおうならば、東大の入試に二回落ち、京都の私大にようやく入れ、二年になった時に精神的な逃避を始め、桂川べりを散歩していた。その時に一人の少女と出会った。この事象はそれほど奇妙だろうか? 東大に合格できずに、京都の私大に入学する人は多くいるだろうし、その後二年になって五月病的な逃避をする人もそこそこいるだろう。そして桂川べりを散歩する人も。烏有の過去と映画の類似はこれで説明がつくのではないか。
 和音(編集長)と武藤はあの映画を撮影した。その時、もう黙示録(この夏と冬の奏鳴曲で見られる事象)のシナリオは出来あがっていた。そのシナリオに基づき、武藤は水鏡に成りすまし、和音は雑誌社の編集長になった。和音は自分の娘(顔の類似のため)を知り合いの子供にし、あのスーツを渡す。(これが遺品という理由)そして、彼女(桐璃)が十七歳になった時、桂川べりで烏有を見つける。烏有が選ばれたのはまったくの偶然である。そして烏有を雑誌社の社員にし、和音島への出張を命じれば、だいたいにおいて、映画の「ヌル」と烏有とが一致するのではないだろうか。
 ではなぜ、武藤と和音は黙示録を書き上げ、こんなことをしたのだろうか。これは推測でしかないが、「和音」の理念を放棄した村沢達に対する復讐と、PARZIVALの実現ではなかったのだろうか。黙示録のシナリオどおりに、村沢達四人は死に、烏有は一つの聖槍、桐璃を守りつづける。そして最後の「和音」の展開。これにより烏有の中で、「和音」理論が実現したのである。
 「和音」理論とは、作中で述べられているとおり、自分の中の最も自分である部分を「和音」という仮想人格に仮託し昇華させることで、仮想の神を築くことであるが、烏有には自分である部分がないので(これも無垢のパルツィファルだからか)、「和音」に桐璃を仮託しようとした。そこで生まれたのがもう一人の桐璃で、最終的には現実の桐璃との差異化が生じたために、「和音」が桐璃として展開され、烏有はその現実化された神である二つの瞳を持つ桐璃を連れて本土に戻ることが出来たのである。

6 あとがき

 この作品は、読み返せば読み返すほど、謎が増えていきます。そんなすごい作品を24,25という年齢で書き上げた麻耶雄嵩という人物の才能には改めて驚嘆します。ますます麻耶先生への興味が沸き、ぜひ話を聞きたいと思うようになりました。