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『姑獲鳥の夏』1998/04/18

マスター:野村

 本日、記念すべき98年度最初の例会は、ミステリ・ルネッサンスこと『姑獲鳥の夏』を取り上げることとなりました。京極作品を初めて読まれた皆様、いかがでしたでしょうか?
「こんなのミステリーじゃない」から「生まれてから読んだ本のなかで一番面白かった」まで、あらゆる評価が考えられます。それだけこの小説の懐が深いということでしょう。当レジュメでは徒に偏った論評を下すことを控え、代わりに、本作を読み解く上で重要な鍵でありながら、初めて読む人も、また何度も再読している人もつい読み飛ばしてしまいがちな冒頭のシーン、京極堂が語る脳と心と意識の関係について、簡単な解説を加えることとします。


○本作においては脳、心等の言葉に厳密な定義づけがなされていますが、それらの定義は個別に説明はされておらず、理解を妨げる一因となっています。そこで、それぞれの言葉に解説を加えつつ説明していくことにしましょう。

 :脳はここでは、純粋に器械的なものとして扱われています。心が、何らかの事項を思い出したいと欲すると、脳はそれに対応した記録を引き出して心に渡します。また、感覚器官が受容した雑多な情報を整理して、これも心に引き渡します。
 ここでいう器械的とは、歯車仕掛けのように器械的ということです。脳は主観/自意識を持たず、自らが扱う情報に対しても当然なんら感想を抱きません。京極堂はこの脳を擬人化して論じています。

 :心は気持ち・感覚をいわば味わう主体です。‘悲しみ’あるいは、赤い色の‘赤さ’等を感じるのが心です。しかし、ここで留意すべきは、心は「ああ、今私は悲しんでいる」というような自覚は抱かないという点です。その役目は次の意識に譲られます。

 意識:意識こそが自我です。人間のみに存在する、“私”という概念を抱ける唯一の機能です。京極堂は、意識とは脳と心の交易の場であるといっていますが、これを具体的に例示してみましょう。身近な例として、試験の点が悪かったとします。

 まず目が試験の点数を……(中略)……脳がこの点は悪いとの情報を発する>意識が「そうか、この点は悪いか」と思う>心がその点の悪さに悲しむ>意識が「私は悲しいなあ」と思う>脳が悲しい場合の対処法を検索し、「次に頑張ろう」と思えば良い、との情報を発する>意識が「次に頑張ろう」と思う>心の気が晴れる>意識が「気が晴れた」と思う

 おおざっぱにはこんな感じです。何かを“思う”のは意識だけである事に注意して下さい。

 潜在意識:京極堂の説明の中では、‘潜在意識’と‘無意識’の二つがはっきりと区別され、使い分けられています。我々は日常この両者を混同して使いがちなので、特に注意が必要です。ここでいう潜在意識とは、心と、言葉を持たない動物的な旧い脳、の交感の場です。

 無意識:無意識とは意識の欠如です。注意すべきは、ここでは‘意識’と‘無意識’は同類の言葉ではないという点です。
‘意識’が名詞として使われているのに対し、‘無意識’は‘無意識に’のように使われています。京極堂は、この場に於いて‘無意識というモノ’には言及していません。ちなみに‘無意識’という単語を発してもいません。


 さて、以上をふまえた上で、幽霊を見る原理について考えてみましょう。幽霊を見るためには、それを‘無意識に望む’事が必要です。具体的には以下のようです。

 (前略)……心が、死人に存在して欲しい、いや存在するはずだと感じる>(意識を飛ばして直接脳に伝わる)>脳が幽霊を捏造して送り出す>心に幽霊の像が映る>意識がそれを認識する>脳がそんなものはあるはずがない、つまり幽霊だという

といったところでしょうか。
 なお、なぜ意識を介さずに脳と心が連絡するのかは言及されていませんが、本来脳と心の情報交換は非常に膨大であり、意識が認識/把握しているのはもともと常にごく一部なのだと考えるのが妥当であると思われます。普段の生活では有り得ないものなど見ないので、それで支障がないというわけです。

 そして、このようなしくみで体験される‘有り得ないこと’に説明をつけるために発明されたものとして、妖怪(あるいは宗教)が説明されています。


 さて、いかがでしたでしょうか? 『姑獲鳥の夏』にはこのあとも言葉と宗教/共同幻想の関係についてや、記憶の仕組みの説明等独特の論が繰り広げられています。このような“独特の論”は京極作品に共通してみられる特徴です。これらの論は概して長いのでつい読み飛ばしてしまいがちですが、読み込めば読み込むほど京極夏彦の奥の深さに驚かされることでしょう。

 それでは皆さん、よい読書を。