ネットリレー小説
ここでは、大阪大学推理小説研究会メーリングリスト上で
2000年7月31日から2000年8月22日にかけて行われた リレー小説を掲載しています。
少し長いですので、各章ごとにジャンプできるようにしてみました。

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第一章  第二章  第三章  第四章  第五章  第六章  第七章  第八章
「ウィリアム・スットン卿の手記」


第一章 プロローグ

 十八世紀、英国の探検家、ウィリアム・スットン卿の手記より:
「クエルカナナ島の原住民に伝わる秘儀のこと。その最中、彼らが、崇拝する邪神の像に捧げし呪言、
 ふぐるる・べば・かろてぐ・つちぃや・ぼそそき・ほふてぇえ・ん・ぜれん
 (地の底深き死の都にて、眠れるつちぃや夢見つつ居たり)
 「つちぃや」とは彼らの崇拝せる邪神の名で、その名を唱えるだけで心臓が爆発するとさえ言われ、非常に畏れあがめられているものである」

(書き出し)

 私はここに、余命を賭して、自ら体験したあの恐ろしい儀式の詳細な記録を残す。あの体験のため、私の命はいつ尽きてもおかしくはないのだ。神よ、せめてこの手記を終えるまで御許にお呼びくださいますな……。
 さて、話は一七三三年六月十三日に始まる。その日、インド洋を漂流していたセントハーチー号はあのクエルカナナ島に漂着した。セントハーチー号は、

(浦久保)

我が大英帝国の威信をかけた最新鋭艦であったのだが、その時はもはや自力で航行することは不可能となっていた。水の中に何かを見たという迷信深く無学な船員たちが、愚かにも反乱を起こしたのだ。私は女王陛下の臣民として、反乱員を全員射殺したのだが、燃え上がる帆柱はどうする事もできなかった。
 この島の近海にも大英帝国の基地はあるはずだった。とりあえず、原住民と

(野村)

接触する事が急務であったが、連れてきた通訳は反乱が起された時に射殺してしまったこと、及び、そもそもこの島に住民がいるのかどうかについて考えると、焦眉の念に堪えなかった。
「ダンナ、オ困リダカネ?」
 その声を聞いた時、私は文字どおり飛び上がった。ふり返って、野蛮な装束に身を包み、白い歯を見せてにやにや笑う男の姿を見ても、私には信じられなかった。どうしようもなく醜く歪められていたとはいえ、それはまさしく我が母語、英語だったのだ。
「言葉が分かるのか?」
「ワカルヨ。どくたあニ習タヨ」
 どくたあなる人物は彼らの村にいるという。私は残り少ない水夫が船荷の積み降ろしをするのを主計長に監督させ、航海長を伴ってその村を訪ねた。
 途中ジャングルを通り抜けねばならなかったが、距離はさ程に遠くはなかった。われらの訪問をどうして知ったのかは未だに謎だが、どくたあは我々を村の入り口で待ち受けていた。私はそこで驚愕の余り棒立ちになった。
「──リヴィングサンド博士とお見受けしますが」
 その人こそは、高名な冒険家にして言語学と地質学の博士号をもち、数学、哲学及び文化人類学に関する著書があり、八年前インド洋上で突如としてその消息を絶った、デイヴィッド・リヴィングサンド博士に他ならなかった。

(野村)

 博士はよく日焼けした顔に微笑を浮かべて頷いた。
「いかにも、私はリヴィングサンドだ。懐かしい三本マストの船が島の沖合いで煙を上げているのが見えたのでね、念のためにテヌカに見に行かせたのだよ」
 私の横に立っている男を目で示し、「彼はまだしも言葉が達者なのでね」
 そこで博士は表情を真剣なものに変え、
「さて、何があったか聞かせてもらえるだろうか。もっとも君のその格好を見れば、若干の見当はつくというものだが」
 私は自分の船に生じた不名誉なできごとを話さねばならないきまり悪さに、あちこちが焼けこげた軍服の中で身じろぎした。
「いや、すまない。少々気が急いているようだ。それよりも、まず我が家へご案内しよう。あばら屋ではあるが、多少なりともくつろいでくれたまえ」
 続けて、博士はテヌカに何ごとか話しかけた。それは私の耳には鳥のさえずりのようにしか聞こえなかった。現地語らしい。短いやりとりのあと、テヌカは小走りに村へ入っていった。
「日没までには君の部下の分も雨風をしのげるくらいの屋根はできるだろう」
 無言で促す博士の後に従って、我々はその村の中に足を踏み入れたのであった。

(原田)


第二章 ツチィヤの猫撫で声

 村人の大半は原住民であったが、驚いたことに、その中に少なからぬヨーロッパ人が混じっていた。おそらく、博士や私と同様に、何らかの理由でこの島に漂着したのだろう。気のせいか、彼らの目から文明人の光が消えているように思われたが……。
 博士の言う家というのは、川岸に建てられたみすぼらしい小屋のことであった。彼はそこで村の医師として暮しているらしい。
 テヌカの知らせを受けた村人たちが客人用の小屋を建てているあいだ、我々は博士の小屋で傷の手当てを受けながら、これまでのいきさつを語った。
 だが、それを聞いた博士は、先ほどとはうって変わって、言葉少なにねぎらいの声をかけたきり、じっと黙してしまった。
 しばらくして、やにわに博士が立ち上がり、
「ちょっと来たまえ、スットン君。君のその左手の火傷はひどそうだ。村外れにわしの栽培した薬草園がある。そこで新しい湿布ととりかえよう」
と言って、私を促して歩き出した。
 道中も、博士は終始無言であった。というよりも、何かにおびえているように見受けられた。私は沈黙に耐えきれず、
「あの、博士、どうかしまし……」
と声をかけようとした。
 と突然、博士は、「しッ!」と言って、その節くれだった手で私の口を塞ぎ、腰から山刀をすらりと抜いた。
 一瞬、私は息をのんだが、山刀はそのまま博士の手を離れ、地面に突き立った。
 すると──おお、神よ──地面から世にもおぞましい生物が飛び出してきたではないか。それは『猫』だった。何の変哲もない猫が、土中を土竜(もぐら)のように這いずり、我々をつけまわしていたのだ! 山刀に額を割られた猫はしばらくのたうちまわっていたが、やがて、静かになった。
「危ないところだった。これは猫のように見えるが、神の創造物ではない。地の底に眠る『あれ』の眷属、恐るべき邪悪の使い魔なのだ。そら、あそこに見えるのが薬草園だ。ここまで来れば安心だ。やつらはこのセイロン産の茶の木の匂いを非常に嫌う。村人もここには近づかない」
 博士は力のない笑みを浮かべて続けた。
「ここならば、安心して話せる。いいかね、よく聞きたまえ。君の船が遭遇した『水中の影』は儀式の合図なのだ。あれが人心を混乱させ、この島に犠牲者を呼び寄せる。そして今夜──『儀式』が行われる! 君たちはこの島をはやく立ち去らねばならん!」
 ああ、私は今でも後悔している。あの最上の恐怖、宇宙の大いなる悪意を知らねばよかったと。しかし、そのときの私は、尋ねずにおれなかった。
「儀式とは、『あれ』とはいったい何なのですか! そして博士、八年前、あなたは何故失踪したのですか! この八年間、何があったのです!」
「……よかろう。日没までまだだいぶ時間がある。日が出ている間は村人も辛うじて正気を保っておる。それでは、話そう、あの恐ろしい出来事を……」

(浦久保)


第三章 謎の連続殺人

「……『あれ』は古き名だ。伝承に拠れば女神と言われている……」
 博士は語り出した。一言ごとに十も老け込んでいくようにすら、私には思えた。
「真実の名は誰も口にはせん。わしですら恐ろしくて口にはだせん。……愚かしいことだと思うか」
 私はかぶりをふった。先刻、神の恩寵を受けぬ輩を見たのだ。あの忌まわしい姿を目の当たりにし、そして、何より博士の目に宿る恐怖を見れば、それを無下に否定する気にはなれなかった。
「ありがとう……だが、わしも以前は愚かしいことだと思っていたのだ……だからこそ無理にも謎を解こうとした。あれを見るまではな……。
 そう、最初から話そう。事の発端は十年前、我が帝国で起こった奇妙な殺人事件にあったのだ……」

「十年前、ロンドンで起こった連続殺人事件を覚えているか? 不気味な事件だった……。被害者は全員、何か猫科の獣に襲われていた。虎だとか豹だとか言われたが……何の仕業なのか結局分からなかった。しかしそれだけなら殺人事件とは言わん。被害者のファミリィ・ネームは全て“Twotier”珍しい名前だ。そして死体のすぐ側には奇妙な――言葉らしきものが記されてた。明らかに、人間の仕業だった。
 相前後して幾つかの噂もたった。殺人のあった晩に黒ミサを見ただの、怪しいインディアンが跳梁しているだの……。――今思えば、とても笑い事では済まないが……。とにかく世間は熱狂的に騒ぎ立て、人々は恐怖に震えたが、事件が途切れるとすぐ下火になった。犯人も捕まらずじまいのままあやふやになった。
 わしも最初は世間並の好奇心しか持たなかった。ただ、その傍らに記されていたという記号には興味を持った。これでも言語学者の端くれだからな。つてで資料を手に入れ、手帳に残しておいた。もっともその頃のわしは、インドへ調査の旅をする準備をしていたから、忙しさにかまけてその記号のこともすぐに忘れてしまった。
 思いだしたのはジブラルタルを越えシチリアへ立ち寄った時のことだ。恐るべき事にここでもロンドンと同じ事件が起こっていたのだ! 獣に襲われた被害者の名は一様に“Tuzia”……そう似ているだろう? “Twotier”と“Tuzia”。そしてやはり傍らには同じ言葉が書かれていた……」

(平井)


第四章 狂気の亜大陸にて

「……インドまでの長い船旅のあいだ、その記号はちょうど良い暇つぶしになってくれた。あの暗号を解ける者は、当時世界に五人といなかっただろう。今思えば、運命的なものを感じるが、わしはその一人だったのだ。あれは、古代アラビア人が使った、もはや滅び去った文字で書かれており、幾つかの数字を表していた。その数字はどれも二十六より小さい数字だったので、わしは英語をそれにあてはめてみたが、でてきた文字のつらなりには何の意味も見出せなかった。しかし! 同様にしてシチリアの暗号を解き、それをイタリア語のアルファベットにあてはめたとき、わしは背筋が震えるのを感じた。その二つの暗号は全く同じ言葉を現わしていたのだ。わしは自分が暗合を解いたのだと確信するに至った……」
「それで博士! それはどういう言葉だったのです!」
 勢い込んで聞く私に対し、博士はゆっくりと指をあげると、空中にその言葉を書き綴った。まるで、その言葉を大地に記すことすら恐ろしいかのように。
 ──THUTHYA、と。
「これがその言葉だ。だがもちろん、それが意味するものは分からなかった。その音が被害者の名と奇妙に似ていることを除いてはな。
 さて、インドに着いてからは、わしはそんな暗号の事などすっかり忘れてしまい、当時わしの助手だったクリファイス卿と二人で、本来の目的である各種の調査に精を出していた。我々の主要な目的の一つが、当時発掘されたばかりで未調査だった碑文の調査だった。
 その石碑は人も通わぬ谷底にあり、発見されたのも偶然に過ぎなかったが、我々にとっては素晴らしいものだった。それに使われていた古代インド語はすでに知られているものであり、我々はその碑文を読むことが出来たのだ。クリファイス卿とわしは狂喜して、早速解読にかかった。
 しばらくして、クリファイス卿が言った。
『博士、どうやらこれは、神聖なもののようですね』
『うむ、この谷自体が、巨大な神殿なのだろう』
『『碑に向かいて、汝の神の名を叫べ。さすれば神は汝の前に姿を現わさん』と書いてありますね』
『うむ、“イエス・キリスト”』
 わしは言ってみた。もちろん冗談だったし、当然何も起らなかった。クリファイス卿もにやりと笑うと、インドの神々の名前を挙げはじめた。そして……そして、おお! どのような地獄の使いがわしの頭にあのような思いつきを吹き込んだのか! わしはふと、あの暗号の言葉を唱えてみた。その途端、今まで横でぼんやりとしていたインド人の従者が、甲高い悲鳴をあげて一目散に逃げ出した。
 クリファイス卿は呆然とそれを見送りながら言った。
『博士、理由は見当も付きませんが、貴方は答えを見つけられたようだ』
『あ、ああ。そうなのか……?』
『しかし、神の姿は見えませんね』
『発音が悪いのかも知れんな。クリファイス卿、君も試してみたまえ』
 神よ許したまえ! もちろんこれも冗談だったのだ。
『私が言うんですか?』
『うむ、君の方がインド語の発音は得意だろう』
『私はどうも先程の従者の様子が気になるのですが……』
『何を馬鹿な。あれはただの迷信深い男だ。さ、言ってみたまえ』
『博士、これには何か悪魔めいたところがありますよ。私は軽々しい冗談をすべきではないと思います。今日のところはキャンプに引き上げましょう』
『これはこれは、高名な言語学者にして冒険家のクリファイス卿、御忠告をどうも。……いや待てよ、高名な言語学者にして冒険家なのはこの私、デイヴィッド・リヴィングサンドだ、君ではない。さあ、言うんだ!』
 私は少し意地になっていたんだよ。そして……ああクリファイス卿! 許してくれ!」リヴィングサンド博士はそのまま倒れ伏すかにみえた。だがそこで持ち直すと、私の肩をがっしりと掴み、言葉を続けた。
「そして、クリファイス卿は、あの、言葉を、発した。その途端、おお神よ! 彼の胸元から大量の血液が吹き出し、石碑を緋色に染めたのだ。わしは駆け寄ったが、クリファイス卿は身体が大地に着くよりも早く絶命していたに違いない。あとで調べたところ、心臓が跡形も無くなっていた。そしてその時、息絶えたクリファイス卿の身体を抱えながら石碑を見上げた時、その時こそが、わしの運命、わしの魂が永遠に呪われた瞬間だった。石碑を染めた血は、ヤツの、太古の邪神の似姿を形作っていたのだ!」

(野村)


第五章 神秘の国からきた男

「その姿のおぞましいことと言ったら……すまない、許してくれ、わしの口からは言えそうにない……」
 博士はそこで、三度十字を切り、大きく息を吸った。
「わしは身柄を拘束され、東インド総督府で取り調べを受けた。といっても、わしの嫌疑はすぐに晴れた。人間にできることではないと、死体を見れば子供でも分かるような情況だったからな。
 結局、容疑は逃げ出した従者に向けられ、彼は絞首刑になった。当局の見解は『これは妖術による殺人である』ということだった……。
 だが、スットン君、これは妖術などという生易しいものではなかったのだよ! この宇宙の悪意そのものと言っても過言ではない、恐ろしい力が存在していたのだ!」
 博士はそう叫んだ。それを目の当たりにしたように、大きく目を見開いて。
「そして……わしは、彼に導かれてこの島に……そう、彼と出会ったのは、拘留されていた石牢の中だった。彼はシナ人のボンズ(訳注:坊子・僧侶のこと)で名をジョオネン・ツチヤ(訳注:『土屋浄然』か?)と言った。
 そう、彼もまた、邪神の名をもつ一族の一人だったのだ! 彼の国はなんと、あの『東方見聞録』に記されている黄金の国、ジパングだと言うではないか。現在でもシナやネーデルランドなどの一部の国としか交易を持たず、今なお神秘の国とされている、あのジパング!
 わしは自分が容疑者であることも忘れて興奮した。彼の英語はインド訛りが強く聞き取りにくい上、彼自身、どういうわけか正気を失っていたので、意志の疎通は困難を極めたが、いろいろと興味深い話が聞けた。
 とりわけ興味深かったのは、彼の生まれ故郷の話だ。彼の故郷はシカバニ・ムラ(訳注:『屍村』か?)と言う。『死体の村』という意味だそうだ。なんと、そこに住むものは永遠の命を与えられるというのだ。シナの皇帝ですら手に入れられなかったという、永遠の命が!」

(浦久保)


第六章 セイロン島の奇怪な事

「永遠の命ですって?」
 思わず聞き返した私に、博士は重々しく首を振ってみせた。
「ああ、その通りだ。だがそれは、君が考えるようなものではないのだよ。まあ聞いてくれ、順を追って話そう。
 彼、ジョオネン・ツチヤが牢屋に入っていたのはその精神錯乱が原因だった。わしは彼の保証人となることによって、彼を簡単に連れ出すことが出来た。わしの旅に同道させ、そのとりとめのない発言から、真実を探るつもりだったのだ。その頃はまだ、彼と邪神との関係には気づいていなかった。さすがに、その名前が偶然だとは信じられなくなっていたがね」
「彼は素直についてきたのですか?」
「素直もなにも、正常な意思表示をしないのだからな。留置している方も、正直もてあましていたらしい。
 インドでの調査を終えたわしは、イギリスへの帰途についた、いや、つくはずだった。だがわしの運命はそのような道をわしに与えはしなかった。積み荷を補給するために寄港したセイロン島が、わしの人生を決定的にねじ曲げた土地となった。
 わしはジョオネン・ツチヤを連れて、港町の郊外を散歩しておった。彼を連れていったのは、わしのいないあいだに何か重要なことをぽろりと話すのではないかといつも心配していたからだ。
 突然、彼がわしをものすごい力で突き飛ばした。次の瞬間わしは茶畑の中に倒れ込んでいた。
『動くのではない!』
 一瞬なにが起きたのか分からなかったわしをさらに混乱させたのは、わしを怒鳴りつけるその声だった。それはジョオネン・ツチヤの、しかし明らかに理性的な声だった。
『そこから少しでも動いたら命はないぞ!』
 彼の声にはこれ以上ない緊張が込められていた。わしは思わず彼の視線を追い、そして戦慄した。大地がのたうち、渦巻いていたのだ。そこから響くのはまさしく地獄の声。やがてその中心から鉤爪をもつ獣の腕が生え、次の刹那、巨大な猛虎がそこから半身を起していた。腰から上だけが土から生えているとしか思えぬ。だが真の恐怖はその次だった。猛虎は器用に一本の爪を延ばすと、大地の上に何やら書き記した。おお! それこそはあの言葉! ロンドンに始まりし我が奇怪なる冒険の端緒、邪悪なる神の名前を示す、古代アラビアの失われし文字だったのだ!
 その時ジョオネン・ツチヤは奇っ怪な身振りを伴う礼拝をし、額を地につけた。猛虎は満足したように頷くと、ふと首をもたげてわしの方を見た。ああ、あの眼! あの眼を忘れるためなら、わしは何も惜しくはない。だがその時わしがいたのは、今我々の周りにあるのと同じ茶葉の畑だった。やつにはわしが見えなかったらしい。奴等が備えているのは、我々の常識の及ばない感覚器官なのだ。やつは不快そうに唸ると、大地の中に消え去った。 わしが話せるようになるまでにはしばらくかかった。
『い、今のはなんだね』
『博士、貴方は知っているはずだ。知らなくとも、お分かりになるはずだ』
『いや分からん。わしには分からん。あのようなものが、我が大英帝国を跳梁しているなど……。馬鹿な! わしは何を言っているのだ。しかし何故……。なぜ君は殺されなかったのかね? おお! わしは何を訊ねているのだ!』
『いや、なかなか良い質問ですよ。しかし答えは簡単だ。下らん文明に溺れ、真なる始祖を忘却した人間には、無残な死が訪れる。大いなる過去に連なる栄光を忘れぬ者のみが招かれるのです。貴方の御国にも、殺されず招かれた者もいるはずですよ。この私のように。悠久の記憶を、知識を背負って生きるこの私のように!』
 そう言う彼の顔は、傲然としながらも、苦悩に歪んでいるようにも見えた。
『招かれる? どこに?』
 わしは愚か者のように問うた。
『いいでしょう博士、貴方はその眼で御覧になるがよい。おいでなさい! クエルカナナ島へ!』
 そして彼は確かに、遥か海をはさんだこの島を指さしたのだ」

(野村)

「そのときからジョオネン・ツチヤは変わったのだ。話し方も振る舞いも堂々としたものになった。彼はすっかり正気を取り戻し、未だ呆然としているわしをよそに航海の準備を整えてしまった。わしは気がついたときにはもう船に乗っていたような有様だった。航海は嘘のように順調だったよ。いや、それが本当に嘘であってくれたならば……、どんなに……」
 博士は私から顔を背け、握りしめた手が震えるように見えた。だが一瞬の後、
「過ぎた運命には立ち向かうしかないのだ。わしが冒険家のデイヴィッド・リヴィングサンドであるためには……!」
 博士は口早に呟いた。むしろ自分に言い聞かせる口調であった。だが、私自身も、以降(手記を書いている今でさえ)、この言葉を何度も反芻することになるのだ。「私がウィリアム・スットンであるためには……」と。
「我々がこの島に着いた夜、『儀式』が行われた」
 そのときの私は落胆した。博士がすぐにこう続けたからだ。
「『儀式』の内容について詳しいことは話したくない」
 私の顔に浮かんだ表情を見やって、博士は皮肉げな笑いを閃かせた。
「心配しなくても『儀式』は今夜も行われる。そのときに君の目で、君の体験でどんなものか知ることになるだろう」
 そうだ、私はその夜知った。博士、あなたは間違っていなかった。願わくは、私がこの先、手記に儀式の内容を記すだけの勇気を持てんことを。
「その『儀式』とは……、『儀式』とは……」
 握りしめたままの博士の拳が今度ははっきりと震えていた。
「彼らの眷属になるための儀式だ。今夜の儀式が終われば、わしは死ぬことのできない体になっているだろう。デイヴィッド・リヴィングサンドは消え、女神の忠実なる部下がまた一人増えるのだ……!」
 博士は弱々しい声音で続けた。
「スットン君、君も見ただろう。あの虚ろな目をしたヨーロッパ人たちを。彼らは既に眷属となってしまっている。わしと同じ船で来た者もあり、それ以降の者もある。彼らはもうすっかり眷属の一員だ。一方の私の儀式が完成するのは今夜……、なぜわしだけにこれほどの――八年もの――時間をかけたのかは分からない。あるいはジョオネン・ツチヤと初めから行動をともにしていたことに意味があったのかもしれない」
「ジョオネン・ツチヤ! では、彼は生きているのですか」
 私はうっかり彼のことを忘れていたのだ。
「生きている? ふふ、もちろん死んではおらんよ。それどころかジョオネン・ツチヤは『儀式』の祭司長だ」
 博士はジョオネン・ツチヤの名前を、呪いでもかけたそうに口にした。そのとき博士の瞳が赤い禍々しい光を宿したように思った。が、それは私の錯覚であったかもしれない。気づけば、空は夕日に焼かれ始めていた。日が沈みきるまではまだ間があるが、時間は充分とはいえなかった。私は博士を急かそうとした。この島を出ろという一言が気にかかっていたからだ。それに、日没後どのような危険があり、どう振る舞えばよいのか、手がかりだけでも知っておきたかったのだ。
 しかし、博士は時を忘れたかのように話し続けた。

(原田)


第七章 呪われた一族

「ジョオネン・ツチヤ、彼の一族、ツチヤ一族はシカバニ・ムラの統治者であり、かつ『マグラ』という魔神を奉じる祭司団でもある。ジョオネンは族長の嫡子であり、ゆくゆくは族長となるべき者であったのだ。
 だが、彼は秘儀によって悠久の時を得た時、うつろい易きこの世の常ならぬことに疑問を感じ、仏教の洗礼を受け、ボンズになったのだ。仏教の教えに深い感銘を受けた彼はジパング全土を行脚し、その先々で人々を助け、聖者として崇められたという。
 しかし、ある夜見た夢が彼を変えてしまった。彼に悪夢を吹き込んだのは、故郷の村で奉じられていた『マグラ』だったのだ。
 それの言うことには、はるか昔、天空より偉大なる存在がこの大地に降り立ったという。その者どものもつ力は強大で、やがてはあらゆる生物の願い、とくに邪な願いを聞き入れ、実現することを可能にした。
 そうしてこの大地はその者どもにけがされ、地獄と化すかに思われたが、それを快く思わぬ創造主によって、その者どもは退けられ、死の眠りにつかされて墓所に封じられたという。ある者は地の底深き霊所に、またある者は氷に閉ざされた冷たき地に、と。
 だが、その者の力はあまりにも偉大なので、完全な死をもたらすことはできず再び目覚めてこの地に君臨することを夢見ているという。そして眷属に命じて目覚めの時のために着々と準備を進めているのだ。
 ジョオネンは悪夢のような場面を次々と見せられ、魔神の力に恐れおののいた。だが、その『マグラ』でさえ、その偉大なる者の産み出した使い魔にすぎぬと知って、彼は悟ったのだ。そして、『マグラ』の一言が彼を変えた。
『行け、西方の聖地へと。そして民の願いをかなえ、救済せよ』
 彼がジパングを離れ西方の聖地巡礼の旅に出たのは今から二百年前のこと。ジパングが交易を閉ざした一六三九年より遥かに昔のことだ。
 そして、わしも、彼に連れられてこの聖地クエルカナナに……おお、ふぐるる べば かろて……」
「博士、博士!」
 不意に博士の目が虚ろになり、何かのうわ言をつぶやき出したので、私は、あわてて博士の腕をつかみ、はげしく揺すった。すると博士は我に帰り、頭を振って何かを払い除けるような仕種をした。
「すまん、わしにもあれの力が影響をおよぼしはじめているのかもしれん。もっと早くに話を切り上げるつもりだったのに……。儀式のことは言えない。もう忘れた方がいい。早くこの島を出ることだけを考えることだ。遅くなってしまったが、まだ、日が大地を照らしている。心配せずとも時間は十分に……」
 そのとき、近くの茂みががさがさと音を立てた。博士が山刀を構え、私も懐のナイフに手をかけたとき、茂みから頭をだしたのは、血まみれになったテヌカであった。
「どくたあ、すっとんサン、大変、ぎしキ、ぎしキ、みな死ぬタヨ!」
「そんな、ありえん! まだ、こんなに明るいのに、まさか、目覚めるのか……」
 博士は、手のひらを目にあてて天を仰いだが、すぐに立ち上がり、テヌカを薬草園に隠すと、私を促して、村へと急いだ。
「博士、テヌカは大丈夫でしょうか」
「彼なら心配いらん。彼が知らせてくれてよかった。テヌカも出会った頃は、まさに生ける屍そのものだったのだが、わしの助手になって、アフタヌーン・ティーをたしなむようになってから、徐々に人の心を取り戻したのだ。わしが今まであれの僕にならなかったのも、大英帝国のアフタヌーン・ティーの習慣の賜物かもしれん。長年の喫茶によって、体に茶のエキスが染み込んでいたからだろう。それより、君の仲間が心配だ……」
 村が近づくにつれ、タムタムの単調なリズムが大きくなっていった。儀式は今まさに佳境に入ろうとしていた。

(浦久保)


第八章 大団円

「船長! ご無事ですか!」
 ふいに力強い声が私を呼び止めた。見れば草むらに隠れるように航海長が立っていた。
「おお、君も無事だったか」
「船長、この島の奴等は狂ってますよ。あのヨーロッパ人共はこちらの言うことにろくに返事もしないんです。私はあのテヌカって男と一緒に、船まで連絡に行ってたんですがね、戻ってくる途中に、あのいらいらする太鼓の音が始まりましてね、そしたらテヌカの奴が真っ青な顔になってね、村に入っちゃいけない、ここに居ろって、私をここに残して走って行っちまったんですよ」
「そうか、よし。この道を少し戻ったところに茶畑があって、テヌカがそこに居る。君は彼を連れて船に戻り、ボートの用意をするんだ。食料と水だけ積み込み、いつでも出発できるようにしてくれ」
 我が信頼できる航海長は余計な疑問ははさまなかった。
「分かりました。しかし船長は?」
「私は村へ行かねばならん。もし私が戻らなければ、君の判断でこの島をでてくれ」
 航海長は敬礼した。
「アイアイ・サー。船からこれを取ってきました。どうかご無事で」
 航海長は私に一丁の元込め銃を渡すと、駆け足でその場を去った。
 そして博士と私は、悪夢の村へと踏み込んだのだった。

 その光景は想像を絶するものだった。
 村の広場に集まった村人は、のたうつ大地に沈み込もうとしていたのだ。
 あるものは腰まで、あるものは首まで地に呑み込まれ、それでも彼らの虚ろな眼には、何の表情も浮かんではいなかった。
 ちょうどその時、タムタムを叩いていた男の両腕が地に没した。辺りを静寂が支配した。
「ジョォオォネェェン!」
 リヴィングサンド博士は叫んだ。その声に答えてこちらを振り返った男、広場の中央で、ひとり大地に両足を踏みしめて立っている東洋人の男こそが、『儀式』の祭司長、ジョオネン・ツチヤだった。
 彼は大仰に辞儀をした。
「これはリヴィングサンド博士。この世界の真なる支配者が蘇る至高の儀式に、これ程の高名なゲストお迎えできるとは、祭祀長としても感激に堪えませんな」
「ばかな! そんな事をさせるものか!」
「貴方に何が出来るというのです。真なる世界の有り様を知ってから八年間、貴方はついに目覚めなかった」
「なんだと? 貴様はなにを言って……」
「博士、のいて下さい! これでお終いですよ」
 私は元込め銃を取りあげると、一発でジョオネン・ツチヤを打ち倒した。弾丸は額の真中を貫き、ジョオネンはもんどりうって倒れた。
「博士、これで……」
「無駄だよスットン君、見たまえ」
 博士は指さした。おお! それはまさしく神への冒涜に他ならなかった。ジョオネン・ツチヤはゆっくりとその身を起しつつあった。焦点を失っていた瞳に、ふっと意思が戻った。彼は私を無視して博士に話しかけた。
「なんの冗談ですかこれは。貴方には全く失望しましたよ。生贄のひとりとなるがいい!」
 ジョオネンは手にしていた奇妙な杖を大地に突きたてた。その杖はするすると大地に呑まれ、次の瞬間、地面から飛び出るようにしてリヴィングサンド博士の腹部を貫いていた。博士はがっと血を吐いた。杖はそのまま地を通ってジョオネンの手元に戻ったが、博士は倒れなかった。すでにその両足は、膝までが地に没していたのだ。私は叫んだ。
「博士!」
 博士は観念したように笑っていた。
「いいんだよスットン君。リヴィングサンドがリヴィングソイルに喰われるというわけさ。地質学者としては、そう悪い運命でもないよ」
 そしてその時、リヴィングサンド博士は自分の言葉に驚いたかのように眼を見開いた。
「待て、待てよ。スットン君、聞いてくれ。わしの家名ははリヴィングサンドだ。珍しい名前だよ。そしてリヴィングサンド家の者は代々地質学に造詣が深いのだ。これは何故だ? 何故だ……」
 そしてリヴィングサンド博士はまた咳き込んだ。私は目を剥いた。博士が吐いたのは、ざらざらとした、そう、砂だったのだ。
 その砂を浴びた大地は、まさしく身をよじった。そして、博士の身体を地上に吐き出した。
 博士はすっくと立った。腹部からの出血もいつしか止まっていた。そして私は、博士の口を通して博士ではないものが語るのを確かに聞いた。博士自身の眼が、自分の身に起きていることへの驚きに見開かれていた。その声はジョオネン・ツチヤに向かい、彼を通して別のものに呼び掛けていた。
「貴様が蘇ることなどないわ! 外なる神よ!」
 その瞬間のジョオネン・ツチヤの顔に浮かんだ表情が意味するものは、確かに喜びであったと、私は今でも確信している。
「ついに現われたか旧支配者! だがツチヤ一族の名にかけて、儀式の邪魔をさせるわけにはいかん。お出で下さい! マグラ様!」
 次の瞬間、ジョオネンの言葉に呼応して現われたものは、私の魂を永久に汚染した。それは、大地を割ってその身を現わした。ああ! その姿! どのような生物でもあり得ぬほどのその巨体は、まさしく巨獣ベヒーモスと呼ぶにふさわしかった。シルエットは四足獣のそれに似てはいるが、その肌は岩石そのものであり、地を震わすその咆哮、それは実に大地の長虫、土竜とも呼ぶべきものだった。
 博士は、いや、博士の口を借りたものは不敵に笑った。
「ふふん、手下を呼んだか。こんな、年経たひ弱なケダモノに守ってもらおうなどとはな。だが使い魔を持つのは貴様だけではないぞ。来たれ! 導ける王よ!」
 そして私は確かに見た。小さな頭部と長大な尾を備えた、白く丈高き巨体を。その姿は獣ながら二足で歩み、その肌は波打つ畝のようだった。二つの巨大なる魔獣は組み合うと、そのまま非実在の世界へと薄れ消えた。
 リヴィングサンド博士の身体が、ふわりと倒れ込んだ。
 ジョオネン・ツチヤの声が、哭き喚くように響いた。
「そうだ! 貴様の力はそこまでだ! そして今、儀式は完成する。おお! ふぐるる・べば・かろてぐ・つちぃや・ぼそそき・ほふてぇえ・ん・ぜれん!」
 ジョオネンは両手を広げてすっくと立った。その胸元がどん、と音を立てて爆発する。血潮があたりに降り注ぎ、大地がどくんと脈動した。倒れていたジョオネンが、むくりと起き上がる。
「……かろてぐ・つち……」
 その胸元は再び爆発した。もう一度大地が脈動し、倒れたジョオネンはまたも起き上がり、そして三度……。
 私はなす術もなく座り込み、リヴィングサンド博士を抱え上げた。そして気づいた。博士の口が、囁くように同じ言葉を繰り返しているのを。
「来タレ、来タレ、来タレ、来タレ……」
 私はさらさらという音を耳にした。周囲を見まわして、私は慄然とした。地表を砂が走っているのだ。砂は際限なく集まって来るようだった。おそらくは、この島の周囲の砂浜から、そして海底から押し寄せ、この島を覆い尽くそうとしているのだ。
「今だ! 神が顕現する!」
 ジョオネンが叫んだ。そして島全体が絶叫した。大地が、突き上げられたように鋭角に盛り上がり、その高さは瞬時に百フィートに達した。そして次の瞬間、大地は引き戻されるように平らに戻った。邪神は、地を覆う砂を突き破ることが出来なかったのだ。
「馬鹿なぁ! もう一度だ!」
 ジョオネンが喚いた。その身体は胸元の皮膚と筋肉が吹き飛び、肋骨が露出していたが、それでも彼は生きていた。大地はいま一度弾けようとしたが、今度は最初ほどの高さにもならなかった。砂の厚みが増しているのだ。そして砂は渦を巻くように流れはじめた。
 リヴィングサンド博士がかっと眼を見開いた。
「スットン君、走るんだ! 船まで死に物狂いで走るんだ! この島は沈む!」
 我々二人は後も見ずに走り出した。全島が今や鳴動していた。島中の木々が、岩がこの場所めがけて押し寄せて来ているようだった。我々が浜辺に着く頃には、地面は明らかに島の中央に向けて擂鉢状に傾斜していた。
「ボートを出せ! ただちに陸を離れるんだ!」
 そう叫んだ直後、どうやら私は気を失ってしまったらしい。航海長の逞しい胸が私を受け止めてくれたのを憶えている。

 我々のボートは、三日後にセイロン島に向かう商船に助けられた。クエルカナナ島は太古の秘密を秘めたまま海中にその姿を没した。ジョオネン・ツチヤの消息は杳として知れない。流砂に呑まれ、島と共に海中に没したのか。あるいは今だ、その呪われた身体と共にこの地上をさまよっているのか……。
 私と博士、そしてテヌカは、セイロン島に留まることにした。手続きをして故郷の屋敷と地所を売却し、この地で紅茶農園を経営することにしたのだ。テヌカは紅茶栽培に才能を発揮し、事業は順調だ。だが、私の心に平穏が訪れることは二度とない。あの邪神は滅んだ訳ではないのだ。
 今朝、リヴィングサンド博士が気になるニュースをもって来た。インドで蝗の大群が発生し、作物を食い荒らしながら南下しているというのだ。この群れが海を越えるということはあるだろうか。我々の紅茶畑が食い尽くされた時、我々は無事でいられるのか、そんな事は考えたくもない。それに、蘇らんとする太古の邪神はあれ一柱ではないのだ。
 それにしても、私は何と恐ろしいことを知ってしまったのだろう。もう耐えられない。恐ろしい、恐ろしい……」

(完)

(野村)