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夏合宿特別読書会レジュメ(1998/08/01-02) 課題作:狂骨の夢(京極夏彦)

文責:中根

1)はじめに

 狂骨の夢は言わずと知れた京極夏彦の長編第三作です。京極作品を読書会で採り上げるのは今年二度目ですが、この作品は他の京極作品とは一風違うところがあり、それが魅力の一つとなっているので、あえて採り上げてみました。この作品を採り上げるにあたって、ネタばれをしないことは非常に難しく、それゆえこのレジュメにもネタばれとなっている個所がいくつかあります。また、京極作品の性質上、他の作品に言及する事もあります。あらかじめご了承ください。なお、以降の文章中の引用は、特に断りがなければ「狂骨の夢」からのものです。

2)作者紹介

京極夏彦:
昭和38年(1963)、北海道小樽市生まれ。1994年、「姑獲鳥(うぶめ)の夏」を講談社に持ち込みデビューを飾る。以降、妖怪を題材にした「妖怪小説」というジャンルを作り上げ、その魅力的な登場人物、独特な作品世界と合わせて、大反響を呼ぶ。最新作は「塗仏の宴 宴の支度」。もうすぐ「宴の始末」が発売される。
水木しげるの大ファンでもあり、鬼太郎のTVアニメのシナリオを手掛けた事も。また、アートディレクターという肩書きも持ち、何人かの推理作家の本の装丁を手掛けるなど、その多才ぶりを発揮している。

3)京極作品の魅力

 京極作品(狂骨の夢に限らず)には多くの魅力が存在し、それがために多くの読者を獲得して止まないと思う。その魅力について考えてみたい。

3.1)登場人物の魅力

 京極作品には「レギュラー」とでも言うべき登場人物がいる。関口巽、中禅寺兄妹、榎木津礼二郎、木場修太郎等の人物である。彼等が非常に個性的で、魅力あふれる人物である事は言うまでもない。関口の語り口、気質、榎木津の奔放さ、中禅寺秋彦の知識、木場の一途さ。このどれか一つが欠けても、京極作品は京極作品ではなくなるだろう。それほど、京極作品と「レギュラー」と強く結びついている。
 もちろん、魅力あふれる人間は「レギュラー」だけではない。その周りを取り巻く人間もまた、「レギュラー」とは別の魅力を持っている。例えば、関口や中禅寺の妻などは、登場回数が少ないにもかかわらず、しっかりその存在感を発揮している。鳥口のひょうきんなキャラクターは、ともすれば重くなりがちな京極世界に笑いを提供する。さらに私は、「敵役」とでも言うべき人物が、京極夏彦の描く人間の中でもっとも魅力的ではないだろうかと思う。姑獲鳥の夏、魍魎の匣においてもそうであるし、この狂骨の夢でも、二人の朱美と、彼女等を取り巻く人物がそれぞれの魅力を存分に発揮している。
 ただ、キャラクターの固定化によって、作品に無理が生じ始めている事も事実である。ともすれば御都合主義との批判も招きかねない。それをどう克服していくのかも注目すべき点であると思う。

3.2) 世界の魅力

 京極夏彦の作品に描かれる世界は、サンフランシスコ講和条約の締結後、つまり日本が終戦後主権を取り戻してすぐの時代を舞台にしている。いまではどの家庭にもあるような電化製品も普及していない、夜となれば闇が世界を覆い隠す、そんな時代の事である。京極夏彦が、何故この時代を舞台にして小説を書いたのか。
 私には、その理由はわからないが、妖怪というものを題材にしている以上、それとの関わりは当然あるだろう。今の夜も昼もない大都会では、妖怪はもはや存在出来ないのかも知れない。そして私たちはその時代の世界にほんの少しだけ、憧れているのかも知れない。

3.3) 蘊蓄の魅力

 京極作品には多くの蘊蓄があふれている。そのジャンルも多岐にわたり、民俗学、心理学、歴史、宗教論、脳の機能、物理学、生体学など、文系理系を問わない。そのほとばしる知識の一端に触れられる事こそ、京極作品の楽しさではないだろうか。

3.4) 文体の魅力

 私が姑獲鳥の夏を始めて読んだ時、一番驚いた事は、作品の中に使われている漢字の多さであった。確かに京極作品には漢字が多く使われている。それも一般的にはあまり使われないような漢字が特に使われている(例えば、齎らす、慥かになど)。しかし、だからといって読みにくいという感じはしない。漢字をとても有効に使っていて、文章の緩急のつけ方が非常に巧いと思う。

4)「狂骨の夢」の魅力

 それでは、「狂骨の夢」だけにある魅力は何だろうか。それを考えるために、前二作との比較をしてみた。

4.1) 全篇を通じて三人称で書かれている事。

 この点が「狂骨の夢」の最大の(今までとは異なるという意味での)特徴ではないだろうか。姑獲鳥の夏では、全篇、関口の視点から見た一人称であったし、魍魎の匣においても、主な視点は、やはり関口から見た一人称であった。しかし、狂骨の夢では、関口の視点からの場面でも三人称という形態が取られている。何故そうなったのだろうか?
 それには事件の広範囲化が理由の一つとしてあげられると思う。事件自体は神奈川県で起こっている。しかし神奈川県警の存在は非常に希薄である。事件を解釈し、解体するのは東京の人間である。この時、情報を齎らす人間が必要となり、さらに、聞いた話と断るのは非常に冗長な感じを与える。それが三人称が使われている理由の一つであろう。
 もう一つの理由として、私は、姑獲鳥の夏で京極堂が語った、いわゆる「共同幻想」を明確にしたいという意図があるのではないかと思う。何故ならば、この話の一つのトリックがそこにあるからである。すなわち、伊佐間一成の見た「朱美」と、降旗弘の見た「朱美」には、実際に違いがある。しかし、彼等はその二人を同一人物と信じて、後に会話を行っている。さらに、実際は「朱美」を見た事のない関口も、自分の中で作りあげた「朱美」像と、二人の口から語られる「朱美」とが、同一人物であると信じている。これが「共同幻想」の本質であると思う。そしてこれを明確にしたいがために、三人称の視点が使われているのではないだろうか。

4.2)京極堂の話の内容の変化。

 姑獲鳥の夏では、認識論、脳と心の機能、記憶の本質、憑物筋と地域社会、呪いについて。魍魎の匣では、宗教と超能力との関係、宗教論、情報論について。とかなり幅広い内容の事を、京極夏彦は書いている。
 この狂骨の夢でも精神分析や宗教上の回心などについて、降旗や京極堂は語っている。が、その内容が前二作と違って、かなり文系的内容になっている様に思う。(この文系的というのは私の主観です。)そしてこれ以降の作品では、歴史学と民俗学が大きな部分を占める様になっている気がする。もともと京極夏彦は、民俗学をやりたかったということだから、民俗学が中心になっている今の状態は理想的な状態、無理をしていない状態なのかも知れない。

4.3) 話の魅力。

 この狂骨の夢で描かれている犯罪の底流にあるものは、執念である。いわば、この事件は「執念の犯罪」である。魍魎の匣で京極堂は、「犯罪は通り物が起こす」という意味の事を言っていた。しかしここに描かれているのは、スケールの非常に大きな執念の犯罪である。通り物が介在する余地はない。京極堂はこの事件を蹴球にたとえたが、まさしく蹴球にはボールに食らいつく執念が必要だといわれる。そのボールを奪う執念が歪んだ形で表れたのがこの事件だと思う。
 そして、その事件についた妖怪が、狂骨である。石燕の解説によると、狂骨は井中の白骨で、激しい怨みを抱いているという。しかし、京極堂は、「こいつは<骸骨の妖怪>でも」あり、「骸骨系統の妖怪は本来煩悩から解き放たれて陽気にはしゃぐような一面を持っている」と言う。この事件のその一面は、ずばり「夢」だろう。夢を持ち続ける事はすばらしい事だろう。京極堂は、「それが佐田申義さんの夢だったのです」と言う。しかし、その夢が執念へと変わり、その実現へ邁進した時、そのエネルギーの大きさがこの事件を起こしたのだろう。
 ここで再び通り物が出てくると思う。夢は、それが夢である限り何も起こさない。事実、神人達も、鷺宮一党も、その夢を深く胸に想いながら何百年をも過ごしてきた。しかし、その夢が実現できる環境が*整った*時、やはり事件が起こったのではないか。まさに、京極堂が、「だからこそ五百年もあなたの家系は続いて来たのです」、「権力志向になった途端にあなたの家系はあっという間に途絶えてしまった」と言う通りではないだろうか。

5)まとめ

 この作品は京極夏彦のもっとも大きな転換点になったと思う。始めてこれほど大きなスケールの話を書いたし、三人称に挑戦した。しかしそれゆえか、この作品はあまり人気がない様に思える。しかし、そのスケールの大きい話を収束させていく手法は見事であるし、それが「夢」という主題に上手く嵌まっていると思う。

 神人達も、鷺宮一党も、佐田申義も、佐田朱美も、宇多川朱美も、たった一つの髑髏に対して、大きな夢を抱いていたのだ。
 髑髏は夢を昇華するために海へと流れていったのではないか……。
 私の夢は何にのって、何処へ行くんだろう。

 おもわずそんな気持ちになってしまう「夢」のような作品だと思います。

6)謝辞および雑感(あとがき)

 今回京極夏彦さんの作品のレジュメを書く事になり、自分に果たして出来るのかと、不安になった時もありました。今こうして、筆を置く時になっても、まだ京極作品の魅力を十分に伝えるには、自分の力が足りない事がひしひしと感じられます。このレジュメをご覧になって、「京極夏彦の作品って面白くなさそうだな」と思われた方。それは間違いです。そう感じられたのならば、それは全て私の責任です。
 初めて姑獲鳥の夏を読んだ時の感動は、今でも覚えています。そして他の作品も。その感動をこのレジュメから少しでも汲んでいただければ幸いです。
 このレジュメの作成にあたって、京極夏彦さんのノベルス、「姑獲鳥の夏」、「魍魎の匣」、そして、「狂骨の夢」、あるいはいろいろな文献を参考にしました。ここにお礼の言葉を述べます。
 そして、最後までお付き合いしてくださった方々、本当に有り難うございます。